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食器

食器 
しょっき

食事に用いる器具。狭義では,椀,茶碗,皿,鉢,杯,グラスなど,特に食卓で使う飲食用器と,神,スプーン,ナイフ,フォークなど飲食用具をさす。広義では,これに加え鍋,釜,すり鉢,包丁などの調理用器具,保存用器具,食膳,盆,重箱なども含む。ここでは狭義の食器のみをとりあげる。
 飲食用の器具には,食事を共にする何人かが共同で使う共用器と,各自が使う銘々器とが区別できる。日本の現代の食器でいえば,湯飲み用の土瓶,煮ものなどを盛りつけた大鉢,サラダの大皿などが共用器,飯茶碗,汁椀,小皿,湯飲み茶碗,神などが銘々器である。現在では,欧米,中国,朝鮮半島ほか世界各地の食事で共用器,銘々器が併用されている。しかしアフリカ,西アジアの牧畜民,農耕民のあいだでは共用器のみを用い,銘々器を使わない食事が広くみとめられる。日本の縄文人をはじめ,世界の先史時代の食料採集民の古い段階の土器には,本来,共用器も銘々器も存在しないらしい。新しい段階(後・晩期)の縄文土器,海外では先史時代の農民の土器には共用器が存在する公算も大きい。ヨーロッパでは,ローマ時代の赤色土器(テラ・シギラータ)に共用器,銘々器がともに存在する。しかし中世に入ると銘々器は姿を消しており,その後半になってようやく再現した。16世紀後半,フランスのモンテーニュは南ドイツに旅して,めいめいが杯をもって飲むさまに一驚と書き残している。〈最後の晩餐〉をテーマとする絵画のうち,古いものには共用器のみで銘々器を欠くもの,パンを銘々皿として代用しているものが多い。中国ではおそくも漢代に共用器と銘々器を併用し始め,朝鮮半島ではおそくも三国時代以来,両者を用いている。日本では弥生時代末ころの高杯(坏)(たかつき)や鉢が銘々器の可能性があり,《魏志倭人伝》の諏豆(へんとう)(高杯)を食事に用いた,という記事との関連も興味深い。須恵器出現(5世紀)後,土師器をも含め坏,皿など銘々器は全国的に普及した。

 世界の食器を通観して日本の食器に特徴的なのは,銘々器に誰々のもの,と所属が決まっているものがある事実である。銘々器は各自が使うものであるから,飲食が始まると終るまで他人は使わず,〈一時的な属人性〉が認められる。しかし,形,文様や記入した名前などによって他と区別可能な器を特定の人が使うことが認められていることもある。この〈恒常的な属人性〉がみとめられている銘々器を属人器とよんでおく。日本では,飯茶碗,神,湯飲み茶碗が属人器であることが多く,朝鮮半島では,飯碗,汁碗,神,匙が属人器にぞくしている。中国および欧米には属人器はない。ヨーロッパではナプキンおよびナプキンリングに恒常的属人性を認めているところがある。このほか,スリランカでは飯皿,台湾南東方の蘭嶼ではトビウオ料理をのせる木皿,モンゴルでは携帯する鉢,ナイフが属人器である。朝鮮半島における属人器は,飲食にあたって飯や汁を配る順序のめやすに有効という。日本の属人器もその役割を果たしてきた。西日本および朝鮮半島においては,葬式の出棺に際して戸口のところで飯碗を割る儀礼がある。属人器をもつ社会にのみ通用する儀礼といえよう。奈良平城宮の土器には,他人の使用を禁じる墨書をもつものがあり,属人性の主張をしめすものとして興味ぶかい。ローマ時代の軍団駐留地の銘々器にも名や記号を刻んだものがある。いずれも集団生活が営まれる場所で食器の混同を嫌った所産である。16世紀の近畿地方の漆器の椀には名前らしい文字を記したものがあり,また当時の飯用木椀が属人器だったことを示す記録もある。しかし,属人器の存在が顕著になる動機のひとつになったのは,銘々膳(箱膳)から共用膳(食卓)への転換であった。また木椀から陶磁器の茶碗への転換も文様の種類の選択が可能になるなど,属人器の発達をうながす動機となったといえよう。

出展 世界大百科事典

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陶器 須恵器

須恵器 
すえき

出典:平凡社

青灰色の,堅く焼きしまった土器。中国灰陶の系譜をひき,直接には朝鮮伽謂(かや)地方(加羅)の陶質土器の系統に属する。5世紀中ごろ(古墳時代中期)前後に,伽謂地方から陶工集団が渡来して生産を開始した。大阪陶邑(すえむら)窯に始まり(陶邑古窯址群)(図),生産地はやがて東海,四国,九州などの各地へ拡散していく。奈良~平安時代には〈陶器〉と表したが,釉薬をかけた陶器との混乱をさけ,考古学では須恵器と書き,〈すえのうつわ〉ともいう。
 須恵器の成形法は,粘土紐積上げが基本である。器形の大小にかかわらず,まず粘土紐を積み上げて原型をつくり,その後,叩きや削りの技法を用いて形態を整え,仕上げの段階にいたって轆轤(ろくろ)を用い,調整する。轆轤の水びき技法が採用されるのは,中世末の磁器生産開始の際であり,須恵器,灰釉・緑釉陶器,中世陶器は,いずれも粘土紐積上げの成形法を基本とし,轆轤の使用は成形の最終段階である仕上げの段階に限られていた。
 須恵器は,窯を用いて焼成した日本最初のやきものである。縄文・弥生土器,土師器(はじき)などの酸化炎焼成による赤焼きの土器に対して,須恵器は窯内で還元炎焼成された。須恵器の窯は,焚口から煙出しまで原則としてひとつながりのトンネル状を呈し,一般に窖窯(あながま)とよぶ。全長8~10m,床(最大)幅2~3m,天井(垂直)高1.5m前後の大きさを標準とし,時代や地方によって若干の差異がある。床面傾斜については,ほぼ水平のものから40度前後の急傾斜のものまでさまざまだが,構造上の基本は同じであり,床面傾斜角をもって登り窯,平窯などとよびわけた過去の用語は避けたい。江戸時代から明治にかけて,須恵器は行基(ぎようき)焼,祝部(いわいべ)土器などとよばれ一部の文人,茶人間で関心をよんだが,学術研究の対象として取り上げるようになったのは大正以後である。器形,用途論に始まった研究も,近年は年代や生産流通などの問題に対する考古学的研究の資料として,本格的な取組みがなされるようになった。
 須恵器はその用途から,貯蔵,供膳(きようぜん),調理などの日用品と,葬祭供献用との二つに大別できる。器形は,壺,瓶,甕,鉢,杯(つき)(坏),高杯(たかつき),盤・皿などの種類があり,形態の大小や口頸部の変化などに対応してさらに細分されている。古墳時代の須恵器は,器形の大半が葬祭供献用に属し,飛鳥・奈良・平安時代には日用品が大多数を占めるようになる。
 大阪陶邑窯を中心に始まった須恵器生産は,数十年の間に東は東北の一部から西は北九州に及ぶ各地へ波及したが,初期の須恵器は器形の組合せや個々の器形の形態に伽謂地方の陶質土器と共通する点が多い。また,伍形壺や耳付四足盤など朝鮮陶質土器には認められるが,その後の須恵器にはみられない特殊な器形があり,陶邑窯と朝鮮陶質土器との密接な関係がわかる。生産地が拡散し,各地で須恵器生産が行われるようになった頃,器形の種類,組合せ,形態などが定型化し,以後日本の陶質土器として変遷を遂げていく。この須恵器の定型化する時期は,ほぼ5世紀末ごろとみられる。
 6世紀を迎える頃,各地に群集墳が出現する。群集墳の形成,盛行に伴い,副葬品としての須恵器に対する需要は増大し,生産地の増加や量産の傾向が強まる。生産工程のなかで,極力仕上げの技法を省略するため,全般に製品は粗略となる。また,高杯の脚部や樹(はそう)の口頸部が発達し,葬祭供献用としての装飾的な傾向が著しくなる。群集墳盛期の樹は,口頸部が異常に長大化し,逆に体部は極端に小型化して,容器としての機能をまったく失い,供献用の仮器としての役目を果たすにすぎなくなる。さらにこの頃,装飾付脚付壺など供献用の大型器形も盛んに生産されるようになる。
 飛鳥時代に入ると,新たな政治体制の下で宮廷儀礼の形式が定着し,やがてそれは地方へ波及し,さらには官僚貴族の生活にまで浸透していくが,須恵器もそれに伴って大きな変化を遂げる。器形の種類は盤・皿類,瓶などの供膳用が主体となり,古墳副葬用として盛行した高杯や樹は急減あるいは消滅する。このほか,仏教に関連した鉄鉢形の器形や浄瓶,水瓶,それに陶硯などが現れるのも,新しい時代の到来を反映している。奈良時代には,地方官衙の整備や国分寺の造営などに伴い,須恵器生産地はさらに増加し,旧一国に1~2ヵ所の生産地が現れる。
 しかし奈良時代の末期には灰釉・緑釉陶器の生産が始まり,その後中国からの輸入陶磁器も徐々に増加する動向の中で,須恵器生産はようやく衰退のきざしを見せる。平安時代に入って,灰釉・緑釉陶器の供給が盛んな畿内中枢部では,須恵器の器形は甕,瓶子などに限られるようになり,各種供膳用の器形は灰釉・緑釉陶器に代る。平安後期に入ると,輸入陶磁器が爆発的に増え,須恵器生産はまったく衰微していく。一方,各地方の須恵器生産は,平安時代に入ってもなお盛んであったが,やがて東北地方の須恵系土器や東海地方の山茶碗(やまちやわん)など,特色ある陶質土器の出現によって衰退する。須恵器の系譜をひくやきものは,中世まで生産されるが,岡山の亀山焼や能登の珠洲(すず)焼などはその類に属する。⇒瓷器(しき)∥新羅土器            田辺 昭三

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引出物 引き出物

引出物 
ひきでもの

出典:平凡社

宴会に当たって招待した客に主人から贈る物。〈ひきいでもの〉ともいう。古くからの習俗であるが,《江家次第》の大臣家大痢に〈引出物 馬各二疋〉とあるように,平安中期以降の貴族たちの大痢に当たっては,ふつう馬が引き進められたが,鷹や犬,あるいは衣類も用いられている。武家の場合,源頼朝が1184年(元暦1)平頼盛を招待したとき,刀剣,砂金,馬を贈っており,刀などの武具がこれに加わる。こうした引出物とされた物からみて,この行為は本来,みずからの分身ともいうべき動物,物品を贈ることによって,共食により強められた人と人との関係を,さらに長く保とうとしたものと思われる。また貴人を迎え,3日間にわたって痢宴を行う三日痢,三日厨(みつかくりや)の慣習もひじょうに古くさかのぼるものと思われるが,そのさいにも引出物が贈られた。《今昔物語集》の〈芋粥〉において,五位を迎えた利仁将軍が,綾,絹,綿,馬,牛を贈ったのもその例になるが,荘園公領制下,検注,勧農,収納のために下ってくる預所(あずかりどころ)などを迎える三日厨のさいの引出物は,公事(くじ)として現地の人の負担とされた。1190年(建久1)備後国大田荘では,郡司,預所に対する一任一度の引出物として,下司たちが1人別6丈布3反を負担し,1239年(延応1)伊予国弓削島(ゆげしま)荘でも,預所に対し,3年に1度の引出物として布1反が在家(ざいけ)別に賦課され,鎌倉後期,それは名(みよう)別の公事になっている。《沙石集》には,孔子(くじ)によって相手を定め,引出物をさせると,身の災いを免れうるという俗信の話が収められており,引出物の呪術的な効果が,なお期待されていたことを知りうる。しかし中世後期以降,それは通常の贈物ととくに変わらぬものとなっていったと思われ,戦国期の武将たちの間で行われた贈答品は,馬や鷹,太刀や弓矢等の武具一式など,鎌倉時代の引出物と同じものを基本とし,金,銭や扇,また鶴,白鳥,雁,鮭,別,鯉の魚鳥や,菜,昆布などの物産が,それに加えて用いられている。     網野 善彦
[民俗]  一般には引物(ひきもの)ともいい,特に土産(みやげ)にもたせるため膳に添えて出す肴や菓子の類を呼ぶ。今日ではことに婚礼披露の際の贈物に対していう場合が多く,慶事の品のようにみられがちであるが,法事などに出される土産の品も引出物の一つである。祝儀(しゆうぎ)や被物(かずけもの)との区別もあいまいであるが,引出物は痢宴に伴った贈物であり,菓子類など食べ物が多いのも,これを持ち帰らせてその家族などにも共食の効果を広げようとしたところに祝儀や被物との違いがある。⇒贈物         岩本 通弥

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贈物 贈り物 ギフト

贈物 
おくりもの

出典:平凡社

他人に無償で贈り与える金銭,物品のことを総称するが,日本では中世までは下位の者に対して下賜されるもののみを贈物と称し,上位の者へ進上されるものは進物といって区別した。近世以降この区別はあいまいになったが,今日でも進物には上位の者への献上品といった感覚が残っている。貢物も献上品である。これに対し地位にかかわりなく相手への援助を旨とする贈物は見舞と称される。また旅の帰りや訪問など人の移動に伴う贈物が土産(みやげ)であり,このほか祝福や感謝の印としての御祝や御礼など,日本の贈物には状況に応じて名目の区別がある。
 贈物をする習慣は古今東西を問わず広く存在する行為であるが,ヨーロッパなどでは歴史的に都市の発達した中世以降,贈与慣行は貨幣経済に駆逐され衰退していったといわれている。だが日本では貨幣経済の発展とも併存し,中世には武士の間で八朔(はつさく)の進物が幕府が禁令を出すほど流行したほか,中元や歳暮は逆に近世以降の都市生活の進展によってより盛んになるなど特異な展開を示してきた。現代においても一方では前近代の虚礼,農村の陋習(ろうしゆう)といわれながらもいまだ根強く,H. ベフの調査(京都,1969‐70)によれば一世帯当り月平均8.1回の贈物をしその費用は月収の7.5%にのぼるという。ことに中元と歳暮は戦後ますます盛んとなりデパートを中心にその売上げは急増し,世界に類をみない民族的大贈答運動が繰り広げられている。
[日本]  日本には謝罪・感謝・依頼あるいは愛情のしるしとして一時的になされる贈物のほか,中元・歳暮をはじめ年始・彼岸・節供など毎年定期的に繰り返される贈答,出産・年祝・結婚・葬式といった通過儀礼の際や病気・火事・新築・引越し・旅行などの際の贈答,およびそのお返しやおすそ分けなど慣習化された贈答の機会がきわめて多い。定期的な贈答は今日の都市化した社会では中元・歳暮・年始を除くと日本古来のものは廃れ,代りにバレンタイン・デーや母の日,クリスマスなど新しいものがふえてきている。一方,戦前までの村落社会では贈答の原初的意義を伝えるとみられる定期的な贈答すなわち節日の贈答が多かった。その特徴は,贈答品に食物とくに霊魂の象徴とされる蛭が多用されること,また歳暮の新巻鮭,彼岸の牡丹蛭(ぼたもち),盆の素乏(そうめん),雛祭の菱蛭,端午の粽(ちまき),水口祭(みなくちまつり)の焼米,八朔の初穂などその節日に応じて特定の食物が決まっていることである。要するにこれらはその節日の神供であり,これを直会(なおらい)同様に人々が相痢(あいにえ)してその霊力を分割し,また一つの火で煮炊きしたものを共食して互いの結合を強化する意義があったと解釈されている。あるいは地方によっては正月の鏡蛭や端午の粽などを半分だけ自家で作ったものに取り替えて返す習慣があり,これを合火とか火を合わせるというが,逆に異なる火で作った食物を交換してより多くの霊力を得る方法であるともいえる。贈物が神供同然であったことは,水引や熨斗(のし)を添える習俗や古代に贈物を意味したマヒ(幣)に供物の意もあることからもわかる。また贈物一般をトビと呼ぶ地方もあるが,これは〈賜(た)べ〉に由来し神からの賜物を意味すると説かれており,日本人の贈答行為は古来よりの信仰に根ざしたものといえる。会食に欠席した者に食物を送り届ける〈送り膳〉や出席者にもその家族へ食物を包み持たせるならわしまたおすそ分けなどは共食の効果を広げるものであり,オウツリとかオトビ,オタメと称し贈物を入れてきた器に食物を少し取り残して返したり半紙やマッチなどを入れて返すしきたりは,御飯を少し残してお代りする習慣同様,一つの食物を移し回していただき合う共食の作法を残したものとみられる。なお食物贈与にササやナンテンの葉を添えるのは古く葉を食器として使った名残とか魔よけのためといわれている。
 一方通過儀礼や各種とり込みの際の贈答は,儀礼などが行われる家への見舞が中心となる。香奠(こうでん)と餞別(せんべつ)は金銭的援助の性格が強いが,産見舞,通夜見舞,忌中見舞,病気見舞,火事見舞,留守見舞などやはりいずれも食物が多用され,大勢の者が持ち寄った食物の力で当該者の不安な状況を支えるといった呪的な性格を帯びている。七つの年祝に子どもが近隣七軒から雑炊をもらい回る〈七所もらい〉なども同様の習俗である。ただし通過儀礼の際の贈答品は食物に限られてはおらず,妊娠祝の岩田帯,出産の産着,成人式のふんどしや腰巻,結婚祝の帯や下駄,還暦の赤い帽子と袖なしなど一連の衣類が古くから用いられたが,これは単なる祝福のしるしではなく地位や身分の変更を社会的に承認するしるしでもあったとされている。
 贈物は経済取引とは違いつねに返礼の義務を生み,社会関係の強化と一体感を創出する機能を持っている。とくに日本で現在でも贈答が重視され多用されるのは,贈答品の品目によって相手の心がわかるとさえいわれ,また〈まごころの贈物〉などと称されるように,贈答が物を媒介とした心情表現の一手段となっていることが大きい。これは日本人のコミュニケーションが非言語的側面を重視する点や言語による心情伝達が不得意な点とも関連するといわれている。このため贈与の機会に物を贈らないと〈義理を欠く〉と負い目を抱くだけでなく,相手に誠意がないと疑われる恐れもでてくる。ただで動くものは地震しかないといわれ,贈収賄が多発するのもこうした点がその土壌となっている。                    岩本 通弥
[欧米]  欧米でも誕生日祝い,婚約指輪など贈答の習慣があり,パーティ,食事に対しての返礼の社会的義務の存在も認められる。物を贈ることには相手に対する拘束力があり,〈お返し〉はそれからの離脱である。昔この力が強かったことは贈物をあらわす中世フランス語ドン don(ラテン語 donum に由来する)の対としてゲルドンgueredon という〈お返し〉に当たる単語があることにも見られる。don が gueredon を喚起することから,17,18世紀になって贈物をあらわすのにプレザン prレsent の語が用いられるようになり(英語を介して日本語のプレゼントとなっている),さらに現代ではカドー cadeau の語が用いられるようになった。cadeau は元来〈飾り文字〉の意で,食事の折に室内楽の演奏を提供することをも指していることからわかるように,〈お返し〉の拘束力の少ない〈気軽な贈物〉である。また M. モースは,ゲルマン語の Gift が贈物を示すと同時に毒の意味を含むことと,ゲルマン古伝説に不運の因となる贈物というテーマがよく見られることを指摘している。
 ヨーロッパの王侯貴族の重要な徳目は〈気前のよさ〉であって贈物には馬,武具,装身具,衣服,食品といった序列があった。最大の下賜品は封土で,めったに与えられなかった。ロマンスでは身分のある女性が騎士である恋人に片袖をほどいて贈る場面がよく見られる。贈物は社会的行為であるので集団の慣行を知って行う必要がある。日本で贈答に使われる菓子,靴下,タオルなどは欧米では避けられるが,チョコレート,糖果,ボンボンは許される。ケーキは家で作るものであり,靴下は肌着の一つと考えられている。花は無難であるが〈花言葉〉を読み込まれる可能性もあり,キクのように不吉な連想をもつ花もある。刃物を贈らないのも普遍的で,銀の食器セットにナイフは入らず,ナイフだけは別に買えるようにしてある。財布,札入れなどを贈るときは少額の現金を入れておく習慣もかなり一般的である。    松原 秀一
【贈与・贈答のシステム】
 民法の規定によれば,贈与とは当事者の一方がある財を無償で相手方に与える契約である。このかぎりでは,当事者が自由な選択に基づいて,一回的に,無償で(一方的に)贈る財が贈物であると考えられる。しかし,われわれの身近な贈物の習慣を例にとれば明らかなように,贈物は,儀礼的・慣習的な社会生活の局面では,これとはかなり異なった性格を示す。すなわち,贈物はある社会関係に付随する当然の行為として期待されており,したがって,任意というよりは半ば義務的であり,しかるべき機会のたびに繰り返して贈られるのである。またこれが,当事者間の一方的な贈与ではなく,贈物とお返しという双方向の贈答の形態をとることが多い。このような場合にも,贈物は,財の譲渡だけをとり出してみれば個人の恣意によって成り立つ自由な契約のように見えるが,その背景となる状況や期待を考慮に入れるなら,当該社会の習俗,文化によって規定された社会的制度というべきだろう。
[贈物と道徳的体系]  贈物の習慣は,古来よりの人間社会にほぼ普遍的に存在するものであるが,その具体的な形態(贈物の品目,贈物がやりとりされる社会関係,機会等)は,文化の差異に応じてきわめて多様である。しかし,どの事例も,具体的な贈与の形態を規定する細かな規則(いつ,だれが,何を,だれに,どのように)によって制御されており,これによって首尾一貫した安定的な体系をなしている場合が多い。しかも,このシステムは,経済,法,社会組織という社会の最も基本的な側面と密接に連関しているのである。実際,上記の社会にあっては,相対的にひじょうに多くの財が贈物の形でやりとりされ,贈与関係が財の流れの重要な水路になっているところから,このシステムの経済的機能は明らかである。また,贈物は半ば義務であり,これに違反した場合には,非難や制裁が課せられたり,紛争状態が生ずることが多い。つまり,贈与のシステムは,法,道徳,宗教が一体となった未分化な規範のシステムと不可分である。
[贈物の互酬的性格]  贈物のシステムが安定的であるとき,そこに含まれるどの主体(集団)に関しても,贈る関係と贈られる関係のバランスが成立していると考えられる。社会集団の間に特定のパターンに従って贈与しあう関係が成立しているとき,この関係を一般に互酬 reciprocity という。この互酬の事例を分析してみると,人々は贈った分を結局他の人々から受け取っており,その逆も真である場合が多い。このような場合,互酬は,市場的な交換と異なって,功利的な利益を人々にもたらすことはない。それならば,何故に人々は無益に贈物をかわしあうのであろうか。互酬の制度は諸個人(集団)の利害や感情の反映ではなく,むしろ逆に,その単位となる諸集団の凝集と集団間の連帯を同時に生み出すとする見解に見るべきものが多い。つまり,互酬(相互的贈答システム)の合理性は,諸個人にかかわるよりも,社会全体の有機的な統合の成否にかかわるものであるといえよう。
[ポランニーの解釈]  ここから,贈物が功利的な財の交換と区別されるべきであることは明らかである。これをふまえて経済史学の分野ではK. ポランニーが,互酬のシステムを市場における交換との対比において定式化した。互酬のシステムは,再分配 redistribution(集権国家等にみられる,社会の中心への財の集積と,中心から周縁への財の分配),および市場交換 exchange(任意の主体間の財の交換)と並ぶ社会の統合形態の一つである。また,これらの三つのシステムはおのおの固有な制度であって,互いに進化,発展の関係にはない。さらに,実際のどの社会をとっても,これらの三つのシステムが組み込みあって共存する。この3点がポランニーの基本的論点である。彼は,交易,貨幣,市場の3要素が三位一体としてあらわれる市場経済が決して普遍的なシステムでなく,むしろ互酬,再分配のそれに比して特殊なものであることを力説した。⇒市      山本 泰
[贈物と社会的感情]  人はだれでも単独ないし孤立した状態で人生を全うすることは不可能であるから,個人であれ特定の集団であれ,他との共同・連帯をたとえ無意識的にせよ願望し,かつその促進につとめるものである。他方,個人あるいは集団はみずからの社会的位置の確認や強化のために,実質的効果を求めてさまざまに行動し,またその地位を他に認識せしめようと力を尽くす。贈物はまさにこのような社会的実効ある行動の一つである。贈物とは,他者に,経済的のみならず呪的・霊的・象徴的価値や意味のあるものを贈与することであり,この結果として収受した側には,これと等価と考えられるものを返礼する義務あるいは借りが発生する。すなわち,互酬を背景とした贈与交換の現象を呈する。こうした贈与と返礼の習慣は,われわれ自身の周辺においても,虚礼であるといわれながらも都市や農村あるいは産業社会においてさえ盆・暮などの特定の年中行事に際して,あるいはまた日常生活においても根強く広範に定着しているところである。この贈答行為の背景には友情と対立,信頼と不信あるいは愛情,是認,尊敬とその反意などを内容とした社会的感情の複合体が伏在し,この行為によって人々は相互の社会的位置関係の確認や強化に導かれることになる。信頼の証としての贈物に対して,何らかのものを送って返礼することは,この信頼が正当であることを認めたしるしである。逆にこれを拒否することは,友情と交際の拒絶や不信と敵意を意味することになる。
[モースとレビ・ストロースの解釈]  このような贈物の贈与・交換の現象は,近代社会における法的根拠に支えられた商業的経済行為とは異なり,むしろ儀礼的・道徳的側面が強調された慣習ないしは制度である。宗教的・経済的・法的・道徳的・社会的諸側面が複合的に混然としていて十分な分化に達していない,いわゆる未開社会では,経済的行為と儀礼的・道徳的行為が密接に関連し合いながらも儀礼的・象徴的側面が強調されることが多い。このことは,とりわけ M. モースが《贈与論》で主張したように,近代社会とは逆に,実は儀礼的・象徴的贈与交換が社会的・経済的関係の基本的根幹を形成していることを意味している。そして,モースはこのような贈与交換の体系から,贈る義務,収受の義務,返礼の義務の三つの特質を摘出し,とりわけ返礼の義務の動因に着目したのである。この結果,義務的返礼の動因として,呪的・霊的観念レベルにおける強制力を見いだすのである。つまり,物とその所有者は呪的・霊的レベルにおいて結びついていて,収受者が返礼することによってはじめて,この結びつきが解除されることになり,これを契機に贈与物が収受者に属することとなる。この場合,かりに収受側が返礼を怠るならば,凶禍に遭うという観念が付帯していることが重要である。こうした宗教的レベルを強調したモースの見解に対して,モースの学問的系譜に列するレビ・ストロースは,人類普遍の理論の構築を目ざして交換理論の展開をすすめた。彼は象徴的コミュニケーション論を背景に連帯理論を展開するが,モースに比して,システマティックな交換による特定集団間の連帯促進をより強調する。原初的な社会集団は物品や女子の象徴的贈与交換を通じて他の集団との持続的な結合・連帯を維持し,安定させると説いた。つまり,原初的な社会における贈答システムは,まずもって食物や製品,さらに最も貴重な財のカテゴリーである女を含んだ全体的交換であると主張する。
[ポトラッチとクラ]  このいわば連帯促進システムに対して,贈与のもつ他の側面として,送り手と受け手の間に競争や対立をまねく要素のあることも重要である。ポトラッチと呼ばれる北米インディアンの贈与交換に関する事例によれば,自己の威信を高めるために名誉や面子をかけて,財貨の惜しみない競争的贈与や浪費が行われる。これらの事例は身分階層差が明確な社会で見られ,栄誉を求める者は他者に贈物をし,贈られた側はそれ以上の贈物を返礼しなければならず,一方の破産にいたるまで果てしない対抗関係が展開することになる。また,メラネシアにおいてはクラとよばれる一定領域内の島々の間で行われる儀礼的贈与交換の体系がある。海辺部と内陸部との生活物資の交易サークルに加え,価値ある儀礼的物品の循環的な交換体系である。
 このように贈与交換の現象は人類に普遍的な事実であり,自己と他との意志的交流の主要な一現象である。贈与され返礼される物品の背後にある象徴的意味あるいはその行為が内包している呪的・霊的レベルにまで考察を加えるなら,贈物という単なる物品の移動のように見える行為の背後には,物のみならず威信,名誉,功利,契約など重層的価値の移動・混交・同化を見ることができるといえよう。⇒経済人類学∥交換     大胡 欽一

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