ユアン クレイグ 陶芸家


器は料理とともに

ユアン クレイグ(EUAN CRAIG) 略歴

1964 オーストラリア、メルボルンに生まれる。
1978 十四歳のときベンディゴで陶芸に出会う。
1981 オーストラリア、ベンディゴT.A.F.E.カレッジ卒業、アート&デザイン専攻。
1984 カメル・キルン コンクールにてカメル・キルン賞を受賞。
1985 ラトローブ大学(ベンディゴ)を卒業、陶芸学部専攻 文学士を修得。
1985 オーストラリア、スワンヒルに窯を設ける。
1990 日本に渡る。
1991 島岡達三師の門下となる。
1994 栃木県益子町に薪窯を築てる。
2000 栃木県市貝町(益子町の隣町)に転居、窯築。現在に至る。

日本、オーストラリア、イギリスにおいて、数々のグループ展や個展、ワークショップやサマースクールの講師、美術協議会やフォーラムに出席参加などの活動を行っている。

オーストラリアとアメリカ合衆国にて発行の陶芸雑誌に数回記事を書き、掲載される。

ユアンさんは、栃木県芳賀郡市貝町、八溝山地の西端にたたずむ、築八十余年の古民家に工房を構え、日本人の奥様と四人のお子様とともに、豊かな自然に包まれた作家生活を送られています。

ご近所の皆さんからは「オージィオヤジ」と呼ばれ、滑らかな日本語で気さくに話してくれる、陶芸家ユアン クレイグさんの「オーストラリアから益子につながる道のり」、「陶芸への取り組み」そして、「器に対する思い、作陶のよろこび」についてお話を伺いました。

益子での独立

陶芸との出会い

私は十二歳までオーストラリア・メルボルンで過ごし、その後百五十年あまりの歴史を持つ陶芸の町ベンディゴ*1へ移り住みました。
益子に良く似た陶土が採れるベンディゴでの陶器製造は、金鉱採掘者が副業的に始めたのが起源です。

父を早くに亡くし、姉の罹患そして、自身も病弱だったこともあり、仕事は体を使い、同時に鍛えられることを選びたいと考えていました。
そこで、やりたい仕事をリストアップし、条件に合わないことをひとつずつ消していったら、最後に残ったものが陶芸だったのです。このとき、私は十四歳でした。

[益子や:仕事で体を鍛える目的は充分に果たされ、今のユアンさんからは病弱な少年時代は想像しにくいです。]

このころ、友人の紹介でベンディゴ在住の陶芸家ギャリー ビッシュ先生と出会い、彼の指導を受けながら陶芸家への第一歩を踏み出したのです。
十七歳のときには、老舗のベンディゴ陶芸場(Bendigo Pottery)で、観光客向けに、ロクロ実演のアルバイトをしていました。

大学で専門的に陶芸を勉強したのち、スワンヒルで四年間にわたり自分の窯を持ちましたが、大学の講師をされていた瀬戸浩*2先生の影響もあって、伝統工芸と現代工芸のどちらも勉強できる益子に興味を抱いていました。

国際的にも陶芸のメッカとして名高い益子。
濱田庄司*3先生や、バーナード リーチ*4先生ゆかりの、その地で挑戦したいという気持ちが大きくなっていきました。

島岡達三先生

益子では島岡達三*5先生に弟子入りしました。

島岡製陶所の職人さんと作業をともにするには、 日本語でのコミュニケーションが不可欠です。

ロクロを引くときも「今日の漢字」みたいにしてメモを置き、一生懸命覚えました。読み書きもできなければ一人前として認められないと思ったからです。

修行は、島岡先生の指示を忠実に守ることに専念しました。「習うより慣れよ」です。ここで修行する者は、「教そわると言うより、弟子がおのずと学ぶ」という姿勢でした。努力してがんばれば、それを認めてくださる。
職人さんたちも親切に教えてくれました。しかられる事もあったかもしれませんが、当然のことです。

修行は大変良い勉強になりました。

オーストラリアでの作陶は、美術性よりも早く、安く、安定した品質のものを作ることが重視されました。一時間に何個引けば、一日でマグカップを三百個作れる。というように、時計とにらめっこしながらの仕事をしていたのです。

島岡先生のもとでは違いました。

オーストラリアを含め西洋の蹴ロクロ(けろくろ)は左回りでしたが、益子の蹴ロクロは、手前に手繰るように蹴って回転させるため右回りなのです。
右手が利き手の場合、左回りのロクロは利き手が器の外側になりますが、右回りでは利き手が内側になります。

それまでの十二年間、左回りのロクロで引いていた癖があり、思うように引けないのです。

それを後ろで見ていた島岡先生が静かにおっしゃいました。

「大丈夫ですよ、逆回しでいいよ」

ここでは速く作ることよりも、高い質のものを作ることが大事なことでした。
益子の蹴ロクロは、静かにからだ全体を使って回します。

益子での独立

当初は、益子で二年間勉強するつもりでいました。その後イギリスやアメリカにも行きたいと考えていました。
しかし、益子で修行するうちに、「勉強しただけでは充分ではない」と考えるようになりました。

この益子で独立して、さらに同業者に認めてもらうこと。それではじめて日本だけでなく、日本以外でも通用する一人前の陶芸家になれるのではないか。

作品である器は、使う人・見る人に対して、私の代弁者となって語りかけてくれるものと考えています。
納得のいく作品ができるようになり、そしてこの益子で認められるまで、海外での展覧会を開こうとはしませんでした。

一昨年(2004年8月)、来日依頼初めて十五年ぶりにオーストラリア・シドニーの”Ceramic Art Gallery“で、個展を開くことができました。
個展会場に来たオーストラリアの高名な作家が話してくれたのですが、「日本で勉強した人が、帰国後に作陶したもので展覧会を開くことがあっても、日本で作陶したものを持ち込んで展覧会を行うのは、おそらくユアンさんが初めてだろう」

*1ベンディゴ (Bendigo)
オーストラリア南東部、ビクトリア州中西部、メルボルンの北西方約150kmにある都市。人口8万5000。農牧地帯の地方中心都市。1851年の金鉱発見により金鉱都市として急成長し、金鉱衰退後も地方中心都市として発展してきた。金鉱都市時代以来の建物や並木が残る。

*2瀬戸浩
1941~1994。徳島生まれ、京都市立美術大学卒。先輩の加守田章二を頼って益子に築窯。72年に大学講師として渡米。ストライプをモチーフにした自由な造形の作品を手がける。日本陶芸展外務大臣賞受賞。

*3濱田庄司 (浜田庄司)
1894~1978。神奈川生まれ。東京高等工業学校(現東京工業大学)卒。富本憲吉、バーナード リーチと出会い英国で作陶。帰国後、益子に築窯し、柳宗悦、河井寛次郎らと民藝運動に参画。素朴で健やかな、力感あふれる暮らしの器づくりに励んだ。55年第一回重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定された。

*4バーナード リーチ
1887~1979。英国の陶芸家。濱田庄司、柳宗悦らと親交を結び、民藝運動に協力。東洋・西洋の和を求めた作風を確立した。

*5島岡達三
1919~。東京生まれ。東京工業大学卒。濱田庄司に師事。栃木県窯業指導所勤務を経て、53年益子に築窯。国内のみならず、カナダ、アメリカ、イギリス、ドイツなどでも個展を開催し、ワークショップや講義で日本の民陶を伝える。96年に縄文象嵌にて重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定された。日本民芸協会常任理事。

↑zoom↑島岡先生とのツーショット

↑zoom↑やきもののまち益子
旧濱田庄司邸宅(陶芸メッセ内)

全ては料理を楽しむ器のために

器を作るということ

日本は良質な食材を使った多彩な調理方法により、様々な美味しい料理がいただけます。
西洋ではひとつの器に、いろいろな料理を盛り付けますが、日本ではひとつの器に、ひとつの料理を盛り付けます。それはいいなぁと思います。

料理をより美しく、より美味しくするための器は、丈夫で使いやすく、安全で美しさを兼ね備えたものでなければなりません。

個性的なものを作ろうとすると、「わざとらしく」なりますが、自分にとって美しいものを造ろうとすると、その作品は自ずと個性的になります。

エコロジーな薪窯の開発
~どうしても薪窯にしたかった~

薪窯では、薪が植物として地面から吸い取った鉱物が灰となって、自然な釉薬となるのです。
私がかけた釉薬だけではなく、自然がつけてくれる釉薬とあいまって、自然と協力して生み出す作品がどんなものになるのか。窯出しまでわからない。

何が出てくるかな。ワクワクするんですよ。

しかし、伝統的な薪窯では、少なくとも三日間焚き続け、多くの薪を使います。数人で交代しながらの窯焚きは、とてもひとりで行うことはできません。
私には、ひとりで焚ける薪窯が必要でした。
何度も窯を設計し、作っては試し、ようやく満足のいく薪窯ができました。

この窯は素焼きもせずに、生素地(なまきじ)の状態で窯に入れ1300℃まで上げて、十四時間で焼締め、灰を被って光沢が出ます。
薪は少量で済みます。軽トラック一台分(約400kg)程度の薪で焼け、効率が良いので廃材が使えます。

この薪窯はひとりで短時間に焼けるし、薪の消費も少ないので経済的です。環境にやさしいものとなりました。

以前、市貝町の古い消防署を解体した廃材を使わせてもらいました。そのときは、薪に残っていた古釘の鉄分もあって良い味が出ました。

土と釉薬の妙

この作品のように赤みを帯びた部分は、イ草が燃えた瞬間に出た塩分やカリウムがガス化して、磁器土の珪石(けいせき)と結びついたものです。
イ草を使った狙いは、繊細な線を出したかったからです。
備前焼では火襷(ひだすき)として、藁(わら)に塩水をかけたりして使いますが、線が太くなります。

イ草は塩水などで前処理をしなくても、天然のままで効果が出ます。
この線を見てください。淡い金箔のような黄色の線は黒い鉄釉の第一酸化鉄と、イ草のおそらくチタン(分析すれば証明されると思われる)が反応したものでしょう。

この黒は、漆のような深みと、透明感のある漆黒(しっこく)を出したかった。
益子で採れる芦沼石(あしぬまいし)を原料にした柿釉(かきゆう)は、表面に鉄分が浮き出して朱色が出るのですが、一般に益子の黒釉は、この柿釉をベースに長石や土灰を入れて鉄分を薄めることにより黒が出てくるのです。

透明度の高い深い黒を出すために、益子の黒釉より不純物の少ない中国の天目釉(てんもくゆう)に近い、長石ベースの鉄分だけで黒を出しました。
この釉薬をかけて、薪窯で還元焼成と酸化焼成を繰返すことで、折り重なるような深い漆黒が生まれます。

貫入

漆のような黒釉の特徴を出すために、できるだけ貫入が入らないようにしました。同じように青磁にも黒釉と同じ質感が欲しかった。
貫入は焼いたときに、「土よりも釉薬が縮み」そのストレスで釉薬にひびが入ります。貫入を少なくするため、土と釉薬の縮み具合を合わせる工夫が必要になりました。

中国の青磁は、少量の鉄分(2%程度)で作られていますが、このままで使っている土に合わせると、貫入が入ってしまいます。また、益子の青磁は酸化銅を使う緑がかかったもので、今回欲しいものではありません。

釉薬のガラス成分である珪石(けいせき)と長石を減らし、その代わりに磁器土を入れて、土と同等の重量比になるようにしました。
釉薬のガラス成分と、土のガラス成分が同等の重量比になるようにしたのです。さらに鉄の分量も増やし、柔軟性を与えることで貫入が少ない器を作ることができました。

ユニバーサルデザイン

このマグカップの取っ手を見てください。左利き用と右利き用があります。
他に急須も左利き用のものを作っています。

私自身、左利きが入っているようで、右でも左でも文字が書けるし、コップを取ろうとするとき左手が出ます。

日本では矯正されることがありますが、世界の人々の約三割は左利きだと言われています。

なのに、左利きの急須は見たことがない。

オーストラリアでは左利きのための専門店があります。需要があるのです。
急須は十個のうち、三個は左利き用を作っています。お客さんも喜びますよ。
陶板作家の藤原郁三*6さんは、左利きなのですが、この急須を見せたら「ああ良いね、コレ!」、自分でも作れば良かったと。

器は、大きく三つの要素からできています。

1.鉱物の、土や釉薬
2.植物の、薪や灰
3.動物の、作り手としての人

マグカップの取っ手の先を見てください。点線模様が延びて、その先に鳥の「羽根」が飛んでいます。全ての器にあるわけではないが、この羽根は動物の美しさの象徴としてデザインしています。
器によっては「羽根」だったり、「海老」もあります。

デザインはあらゆる方向から見てください。
全体的にデザインしていますから、表も裏もありません。自分が使っているときも、それを見ている周りの人から見ても楽しい。というように意識しています。
飲み物を飲んでいるときには、周りの人からはカップの底(高台内)が見えるでしょう。

身の回りにある自然、例えば木の葉を見てください。表と同じように裏も美しいでしょう。遠くから見ても、近くから見ても美しい。
作品も同じようにしたい。これはとても大事なことなのです。

↑zoom↑器と料理のコラボ、食べたいな

↑zoom↑エコロジーな薪窯

↑zoom↑イ草の模様、天然の妙

↑zoom↑漆黒の釉

↑zoom↑貫入の少ない青磁

↑zoom↑マグの取っ手、右利きと左利き

藤原郁三*6
1946~。大阪生まれ。東京芸術大学卒。河合紀に師事。75年益子にて独立。陶壁、陶板や建築資材などを制作。新制作・スペースデザイン新作家賞受賞など。
http://www.ikuzo.com/

↑zoom↑動物の象徴「羽根」や「海老」

↑zoom↑デザインされたカップと湯呑みの底(高台内)

作陶のよろこび

自然との調和

土をこね、ロクロを引き、釉をかけ、イ草をかけて丹精を込めた後、窯に入れます。薪に火が入ると自然任せになります。
焼き始めると、炎が自ら燃えようとします。私は薪をくべてその手伝いをするのです。

土をこねます。そのリズムは自然の律動に合わせ、土と一体になってもみこみます。土が折り重なる花びらのようになって、菊もみに仕上げていきます。

ロクロを回しているときは、遠心力、摩擦や重力が働いています。自然と対話をしながら形を仕上げていきます。
土には形がないから、その力に合わせようとします。
土が形になりたがっています。

飛び鉋(とびかんな)は、ロクロを回しているときの回転速度と、土の固さと、鉋の当たり具合によって、刻み目が跳んでいきます。
このときの模様は、目で見て手加減しているのではなく、「ルルル・・・ルルル・・・ルルル・・・」という音の規則正しい、微妙な強弱を聞きながら、「この調子、この調子」と願いを込めて、一発勝負をしています。

ロクロを引いて作品を板に置き、それらを棚にさしていくと、蜂の巣のように規則正しく並びます。これは機械的なものではなくて、自然に出てくる美しさとなります。

人は自然の一部ですよね。だから人は自然と折り合い、一緒に暮らしていくべきなのです。作家の役割は、自然の力を引き出し、ガイドすることです。

自然の素材がどういう方向で美しく、役に立つものになれば良いのか、作家が意識付けして作り込んでいくと、器が素直(すなお)な形となって出てきます。

私はこんなふうに、自然と人の力を合わせた作陶ができればいいなと思っています。

一生の仕事

昨日窯出ししたばかりです。
良い仕上がりになりました。展覧会に出したいような出来だけど、次に作りたいもののイメージがあります。
次も楽しみですよ。今すぐにでもロクロに向かいたい。

お金持ちになりたいとか、未来の自分を思い描くよりも、充実した日々を過ごしたいのです。
私の作ったパンやケーキをこの器に盛り付けて、縁側で妻とふたりでいただきながら、庭で四人の子どもたちが遊んでいる。このような生活が目標です。

こういう健康な生活を、死ぬまでずっと続けて行きたい。
毎日器を作って、九十歳まで仕事をしたい。そして九十歳になったら、趣味として陶芸をやろうかなと思っています。

あせらずに、自然とともに一歩一歩積み重ねながら作品を作ることは、日々のよろこびと、自身の成長を感じることができるのです。

やりがいがあります。

私が亡くなって数十年、数百年ののち、私を全く知らない人がこの器を使って、一杯のお茶を飲んでいるかもしれません。
その人が「あぁ、幸せだなー」と思ってくれれば、それは本当の成功となるのです。

zoom↑棚に並べた、美しい

↑zoom↑イ草をかけた、さてどうなるかな

↑zoom↑窯に薪をくべる、真剣勝負

↑zoom↑うれしい窯出し

益子や 後記

ユアンさんのご自宅でお話を伺いながら、緋色の小皿に盛られた手作り抹茶ケーキをいただきました。
素朴な味わいで大変美味しかったので、お母様直伝のレシピを教えていただきました。

料理が趣味のユアンさんは、シーズンには栃木特産のイチゴと、ホイップクリームをのせたり、抹茶の代わりに栗やクルミ、バニラエッセンスを入たりしてバリエーションを楽しんでおられるそうです。

バター、玉子、牛乳を合わせた合計が250ml※になるようにする

※:日本の計量カップは200mlですが、オーストラリアでは250mlが一般的なのだそうです。

<作り方>
1.①の薄力粉、砂糖、ベーキングパウダー、抹茶をよく混ぜます。
2.②のバターを溶かし、玉子と牛乳を加えてよく混ぜます。
3.型の内側に少量のバターを塗り、その上から少量の薄力粉を型にふるいかけます。
4.①と②の材料を混ぜ合わせたものを型に流し込み、180℃に熱したオーブンに入れて40分間焼き上げます。

「ユアン」ケーキをバニラで作ってみました。

素材を生かした味わいが楽しめます。
定番になること請け合いです。